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 二章 荒ぶ風に [ きみのたたかいのうた ]

 頭の奥でがんがんと音がする。
 鈍い痛みを訴える頭を押さえ、ナルトはゆっくりと起き上がった。
 鏡が。
 途絶えた意識の最後を思い出し、勢いよく立ち上がる。重い頭がぐらりと揺れ、視界が一瞬白く染まる。目を閉じて立ちくらみを堪え、ナルトは息を吐いた。
 部屋が明るい。
 日光が、明り取りの窓から差し込んでいた。
「……へ?」
 いつの間に夜が明けたのだろうか。見渡した部屋はいつもの洗面所である。
 慌てて鏡を見れば、意識を失う前に感じた、寒気のするような深い沼のごとき気配は消え去っていた。
 鏡の中から、ぼさぼさ頭の自分が見返している。
「……夢、だってば?」
 夢にしては、そう夢にしては臨場感溢れるものだったように思う。肌が粟立つような、気配を覚えている。だが何の痕跡もない。
 だとしたら自分は何故洗面所で倒れていたのだろう。寝惚けたにしてはひどい失態ではなかろうか。
「訳わかんねー……」
 あっさりとナルトは思考を放棄した。元々自分の頭は考えることに向いてはいないのだ。さっぱり分からないことを考えたところで、頭が痛くなるだけだ。
 ついでだからと顔を洗う。顔を上げた、鏡に映る自分の青い眼を見た。

 がたり。
 物音がした。カカシが帰ってきたのだろうか。
 今頃、とナルトは少し呆れた。
 朝帰りにはもう遅い。窓から差し込む光量は十時を過ぎているように思う。
 だがその前に帰ってきていたのなら、こんなところで寝こけているナルトをほうってはおかないだろう。
 とすればやはり、カカシは今帰ってきたのだ。一つ文句を言ってやろうと思ってドアを開けた。

 カカシの姿が目に入る。くたびれたような格好に、あれから任務を入れられたのだろうか、と考えた。
 ナルトの気配を察したのだろう。忍具入れを外したカカシが振り返り、音を立てて凍りついた。
 先生、と呼びかけようとしたナルトは、その反応に、声が出なかった。
 カカシの藍色の目が大きく見開かれ、口布が動いて なると と象る。
 まるでお化けをみたような反応ではないか────。
 失礼な、と笑おうとして失敗した。
 カカシは二度瞬いて、ぎちと音が立つほどに鋭く気配を尖らせた。
「お前、何」
「へ?」
 ナルトは咄嗟に意味が分からなかった。何、とは何だ。
「何者。何の目的で侵入した。────その姿は」
 ぎりぎり、空気が張り詰める。叩きつけられる殺気にナルトは混乱した。一体何が起こっているのだろう。
 何故カカシが、ナルトに向かってクナイを構えるのだろう。
 カカシの右目がナルトを射る。純粋な殺意で彩られたそれにナルトは叫びだしそうになった。先生、どうして。
「答えろ」
 声を形にしたなら、きっと刃になっただろう。
「せ、せ……」
 息が詰まった。
 違う、と言いたいのに。
 オレはナルトだよ。センセーの、ナルト。
 声は出ずただ喉が引き攣れた音を漏らした。
 手を伸ばしたい。だが動けばその瞬間クナイが飛んでくる、と分かっていた。それほどまでの殺気。空気が帯電したかのようにびりびりしている。
 ────これは、何。
 悪い夢か、夢の続きか。現実逃避しそうになった思考を無理矢理に引き戻す。
 ぐるりぐるりと視界が回った。先生、オレが、分からないの?
 酸素を求めて肺が喘ぐ。
 カカシの目がすうと細まった。業を煮やしたのか、実力行使に出るつもりなのだと分かった。
 ナルトは動けなかった。カカシがナルトを分からないのなら、どうしていいのか考えもつかない。
 見せ付けるようにカカシの腕が動き、左目を覆う額宛てを持ち上げる。
 ぎりぎりと音を立てて回る赤い瞳が現れた瞬間、ああ、とナルトは絶望した。
 今の今まで、これは何かの間違いだと、きっと気付いてくれるはずだと、心の片隅で信じていた最後の希望も砕け散る音がした。
 その眼はカカシの、本気の証だった。
「お前は、何だ」
 低く低く恫喝するように呟いたカカシが、回る写輪眼で鋭くナルトを睨めつける。
 燃え盛る炎がゆらりと蠢くような、赤い眼が這うようにナルトを検分する。
 その眼が腹に固定され、驚きに見開かれた。
「……本当、何なの」
 次に吐き出された言葉は掠れていて、棘が嘘のように消えうせていて、殺気を瞬時に収めたカカシが困ったようにナルトを見ていて。
 何が、と思いながら、ナルトはがくりと膝を折った。

「せん、せ」
 吐き出した声はみっともなく震えている。
 今の今までカカシの本気の殺意に晒されていた体は知らず震えていた。
 カカシは分かってくれたのだろうか。だったら何故、最初から。理不尽な問いがぐるぐるして、ナルトは眼を閉じた。
「お前、ナルトなの」
「なんで……」
 そんなことを聞くのだろう。
 痙攣するまぶたを押し上げたナルトの視界に、後ろ頭をがしがしと掻くカカシの姿が映る。
 その仕草が本気で困った時の癖だと知っていたから、ほろりと涙がこぼれた。
「ナルト、なんだ」
 いつの間にか写輪眼を隠していたカカシが重ねて問い掛ける。
 言葉にならず首を縦に振ると、何かを堪えるように眼を閉じた。その顔がひどく青白いと思った。
「はは……」
 自嘲するように吐き出された笑い声、聞いたこともない響きにナルトは思わず手を伸ばす。
 カカシはびくりと肩を震わせ、そっと、硝子細工を扱うように慎重な手つきで腕を伸ばした。
 その手が触れた瞬間、ぐいと引き寄せられる。温かい、慣れ親しんだ腕に閉じ込められたのだと、一拍遅れて理解する。
 昨日まで当たり前だった感覚のはずが、もう何年もこうしていないように感じる。
 血と硝煙の残滓が微かに胸元から香る。
 痛いほどに抱きしめるカカシの腕が縋りついている様だとふと思った。

 どれだけ、抱き合っていたのだろう。
「……ナルト」
「何だってば」
 カカシの喉元から振動が伝わる。
「お前、どこから来たの」
 時計の秒針が刻む音が、耳に飛び込む。今まで静寂の中にいたような心持がした。
 カカシの顔が見たいと思うのに、腕に絡め取られて身動きが取れない。
「……お前は今、この里にはいないはずだ」
 カカシの声が厳かに降ってくる。
 ナルトは何を言っているのか、瞬時に理解出来なかった。
「何、言って」
「時空間忍術って聞いたことがない?」
 動こうとする身が更に強く抱き込まれる。
「四代目が得意としていた術なんだけどね────ここは、お前のいた時間じゃあない、よ」
 お伽話を語るかのように柔らかな音色でカカシは語った。
「意味がわかんねー……」
「ナァルト」
 声が、降る。
 このまま眼を閉じて眠ってしまいたいと思った。眠って、これは夢で、起きたらカカシが微笑んでいて。うなされていたよ、と眉を下げて。
 悪い夢を見ていた、と笑う。笑い合う。
 ああ、だが無情に現実が紡がれるのだ。
「オレは今、三十七なんだ」
 ナルトの思考が真っ白になった。弾かれるように、顔を埋めていた胸板を押しのける。今度は易々と腕が緩められ、ナルトは勢いよくカカシを仰ぎ見る。
 見下ろしてくる藍の右目は、ひたすらに真摯だった。
 さんじゅう、なな。
 口の中で反芻し、何の数字だろう、とナルトは思った。冗談を言っている気配ではない。だからこそナルトは混乱した。
 銀の髪がしなだれかかる目元が、緩む。
「お前は、幾つ?」
 どこの時間から、来たの。
 ナルトはようやく問いの意味を理解した。
「オ、オレってば十五……」
 反射的に答えてから、転がっていた違和感が、今まさにぱちりと音を立てて正解にはめ込まれたような気がした。

 明けていた夜。
 暗い鏡。
 おかしいと感じた部屋。
 カカシの、態度。

 全てが一つに収束する。
「あ、あ……」
「ナルト、ナルト。怖がらないで」
 未来、という三文字が恐ろしい重圧を伴い圧し掛かってくる。
 怯えに気付かれたのかぎゅうと抱き締められ、ナルトはその胸にしがみ付いた。
「ごめんね、怖かったね」
 優しい声にあやされ、涙腺が緩む。怖かった、そう怖かったのだ。
 カカシに拒絶されたことが、怖かった。突きつけられるクナイ、叩きつけられる殺意。お前など認めないと、全身で威嚇するカカシ。悪夢のようで、現実であることに、恐怖。
「う、あ」
「お前だってすぐに分からなくてごめんね。ナルト」
 そうだ、この言葉が欲しかったのだ。
 安堵の余り、ナルトは泣いた。


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